[人生どう死ぬか] いつか、俺はジジイになる。いつか、君はババアになる。

人生を変えたい

いつか!おれはジジイになる~!♪♪

おれは!おれの死を死にたい~!♪♪♪

おれは!おれの死を死にたい~!!♪♪♪♪



The Blue Heartsという昭和後期~平成初期を代表する日本のロックバンドの名曲だ。

僕は小学生だったか中学生だったかの当初、この曲を聴いて単純に



うっほー!カッコイイ!!!



そう感じた。

時代は流れ、今、現在。

2019年12月24日、一人でむかえる切なくもはかなきクリスマスイブ。



そろそろ人生も真ん中を過ぎるか過ぎないか、という切なくも儚き地点に達した今。

僕はこの曲をあらためて聴いて



うっほー!カッコイイ!!!



そう感じる。



あなたはどう死にたいですか?



12月も後半になり、一年で一番、僕の住む東京都23区の西部側を通る「JR中央線」に身を投げる悲しき人類が増えるシーズン。

ぜひ、あなたには身を投げないでほしい。

と、念のため一言お伝えしておいた上で、僕は問う。



あなたはどう死にたいですか?



実は僕自身も今それを自分に問うているところ。

あと40~50年くらい生きたとして、

その時自分はどのような状況にあり、

その時の世の中はなんぼのもんであり、

そしてその時の医療はどのくらい進歩または劣化しており、

そして自分の死期を悟ったその時、自分はどう死ぬのか。



どう死ねると理想的なのか。



理想的な死に方。



「人は生きていてなんぼ」という前提から見ると、本末転倒のようにも感じる。

でも、人は必ず死ぬ。




一生童貞であっても。

一生セックスマシーンのごとくイカ臭い遺伝子をばら撒き続けても。

世のため人のためにその身を捧げても。

ヤクザの親分として街を自分のものにすることができても。




人は、必ず死ぬ。

必ず死ぬという点において、人は皆、平等である。




今のうちからどういった死に方が良いのか考えておく。

それって大事なことですよね~。


と、先日僕がサブスクリプションを取り続けているニュース番組でやっていて、「確かにそうだな」と感じた。




どうやら、「昔の人類」は、成長の過程で「人の死」を目の当たりにし、「人の死」に関わり、そして「人の死」に向き合い、その中で「死」について考える機会が多くあったようだ。

が、僕たち「オトナになったらバブルが終わってた」世代の人類はどうだろうか?

少なくとも、僕は「親せきの死」でさえほとんど関わらずにオトナになり、30歳になり、38歳になってしまった。


「人が死ぬ瞬間」


を、僕は目の当たりにしたことが無い。




おじいちゃんが死んだ後に

「おじいちゃん亡くなりました」

と留守電で知らされたことはある。



おばあちゃんが死んだ後に、

「すでに亡くなってしまったおばあちゃん」に焼却前の最後の面会をしたことはある。

が、「死んでしまうその瞬間」を僕は知らない。




そしてこれって「あまり良くないこと」だな、と我ながら残念に思う。



実家のワンちゃんが無くなるその瞬間は、家族全員でむかえた。

人によっては「たかがワンちゃん」かもしれないが、反抗期が10年以上続いた僕がワンちゃんから学んだことはとても多かった。

ワンちゃんの死と接して感じた悲しみも、初めての経験だった。



「死」への接触が極めて少ない人生。

これはよろしくない人生だ。



かつて「 中野サンプラザ」の前の交差点で、頭が真っ二つに割れてそこから溢れ出たであろう血がベットリとコンクリートに染みついている、そんな「倒れたおっさん」にたまたま直面したことがあった。

その日は夏の暑い日で、太陽が丁度てっぺんまで昇った、真夏の真昼間だった。


ビックリした。

ギョッとした。


そして僕は、何事もなかったかのようにその場を素通りし、

中央線に乗り、

山手線に乗り、

2時間後、僕はバイト先の地下キッチンで汗ダクになりながらハンバーガーを炭火で焼いていた。



あの年はなぜか、「おそらく死んでいるに違いない」人と何回か遭遇する経験があった。

僕は、なにもしなかった。




その後、僕は深夜の駅で酔い過ぎて下から出すべきものを上から出している女性とそれを心配そうに介抱する男性を見かけ、自販機で水を買って

「よかったらこれどうぞ」


と言ったり、


真夏に道で倒れ掛かってフラフラしているじいちゃんに「おいじいさん、だいじょうぶか」と言って手を貸したりできるまで、正常な方向に人格が改善した。

当たり前のことがある程度当たり前にできるようになった。



「なんでママの言うことが聞けないの!」

「なんであんたはいつもいつもそうやって、ママを悲しい気持ちにさせるの!」


と幼稚園児に「ママの愛」と勘違いして「ママの虐待」をしているママに

「ママ、あなた間違ってますよ。」


と余計なお世話を言えるようになった。

人格がある程度正常な方向に改善してきた。



メンタルが劣化してしまっている自分には、自分の死について考える余裕はなかった。



「死にたい」

そう思うことは何度もあった。



が、「理想的な死に方」なんて「たわごと」を想像することすらできなかった。

そして実際問題「人が死ぬ瞬間」に立ち会った経験もなかった。



このような人間が、70になり、80になり、自分が死ぬ3か月前になり、

「自分はどう死ぬのがベストなのか」

現実的に、理想を想像して、考えられるはずがない。



日本人の男性の多くは、孤独死だ。

孤独死でなくても、葬式さえあげてもらえない人は、この国には非常に多い。



さて自分が死ぬときは、自分はそれでよいか?

それが理想か?



富士の樹海で、誰にも迷惑をかけずにひっそりとその人生に幕を下ろすのが理想的なのか?

今現在の僕には、少なくともそのことを「考えてみる」余裕がある。



メンタルの余裕だ。

余裕のない人間は、人助けなどできない。

余裕のある人間は、余裕のない人間のことを想像しおもんばかることができない。

ことが多い。



余裕のある人間であるということ。

「死をどうするか」

そのことの前に、「余裕」は大切なのかもしれない。



余裕のない時代、余裕のない人々のおばあちゃんはうば捨て山に捨てられた。

余裕のない時代、余裕のない家庭に生まれた女の子は娼婦として売り飛ばされた。



家族の死を自らの手で作ることも、

娘の不幸を自らの手で作り出すことも、

致し方ないご時世だった。



今のご時世、どうだろう。


おばあちゃんを山に捨てる人はほとんどいなくなった。

娘を娼婦として売り飛ばす親は、たまにいるけどほとんどいなくなった。


同時に、一人で死ぬじいさまが増えた。



腐敗してアパート中に腐敗臭が充満して、警察に通報がされてようやく見つかる腐乱死体。

去年、夜遅くに東京は阿佐ヶ谷の住民街を歩いていた時、そんな通報でお巡りさんがかけつけたのであろう現場に遭遇したことがある。



魚が腐ったみたいなあまり心地よくない匂いが、道路まで溢れかえっていた。



じいさまは、気の毒だ。

じいさまは、かわいそうだ。



しかしおそらく、じいさまには「仲間」がいなかったのだ。



家族はいなくても「仲間」を持つことはできる。

結婚できなくても「仲間」と釣りに行って帰ってきて一杯やることはできる。


貧しくて苦しくても、真昼間の公園で「仲間」とわいわい麻雀を楽しむ職業不定・住所不定じいさんは、横浜の寿町周辺にはいっぱいいる。

この界隈にはほとんど毎日救急車が止まっている。

麻雀じいさんの最期、麻雀仲間はじいさんの最期に思いを馳せ、葬式はあげてやれないがだがしかし、じいさんを思いその缶ビールを空高く上げるのだろうか。



僕は知らない。




アパートで孤独死をして五臓六腑すべてが腐敗してしまった状態で発見されるじいさんには、こうした仲間はおそらくいない。



孤独のなか死ぬ。

だから孤独死なのだ。




それで自分はいいのか?

選べるのであれば、どのような死にかたが、自分にとって最善なのか。

選べるのであれば、自分が死ぬとき周囲はどんな状況であってほしいのか。

選べるのであれば、体中に変なクダをたくさんぶっ刺されていたいのかそうでないのか。



今一度、阿佐ヶ谷の腐乱じいさんに思いを馳せながら、考えてみたい。

あなたは、どんな死を死にたいですか?



ブルーハーツ / 俺は俺の死を死にたい (1993.5.3)
人生を変えたい
PS. 僕のメールレターでは現在「自分を上手に表現する力を手に入れて、理解者に出会える自分になる方法」をお伝えしています。

理解し合える仲間たちとみんなで前に進んでいく人生。あなたも手に入れませんか?

是非下のフォームから登録してみてください。

「理解者に出会える自分になる」
無料メールレター受け取り登録
メールアドレス 必須

理解者に出会える自分になろう
タイトルとURLをコピーしました